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野口晴哉、昭子の以下著作は書店で購入できます。(筑摩書房より刊行)
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野口晴哉著作 |
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整体入門 | ちくま文庫 文庫判 240頁 刊行日 2002/06/10 |
風邪の効用 | ちくま文庫 文庫判 224頁 刊行日 2003/02/10 |
体癖 | ちくま文庫 文庫判 304頁 刊行日 2013/03/06 |
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野口昭子著作 |
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回想の野口晴哉 -朴歯の下駄- | ちくま文庫 文庫判 352頁 刊行日 2006/03/08 |
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野口晴哉、昭子の以下著作は株式会社全生社(www.zensei.co.jp)で購入できます。
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健康生活の原理 |
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人間は本来、精妙きわまりない生命の自律作用によって生きている。然るに、今日多くの人々は、この生命の働きすら自覚できず、薬物や専門技術に依存しなければ、健康を維持できないかのように思い込んでいる。 ホルモンを外部から常習的に注入すれば、体内でのホルモン分泌活動は衰えるように、薬物に過度に依存する現代人的傾向は、人間が本来持っている自律能力を、ますます衰弱させているといっても過言ではあるまい。 著者は、人間の体に具っている自律能力を活性化する必要があるとして、錐体外路系の訓練法である活元運動や愉気法を提唱する。本書では、その実践方法が詳しく述べられている。整体生活入門のための適切な書と言えよう。 |
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風邪の効用 |
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万病の因と言われ、また一方で「たかが……」と軽く見過されている風邪。風邪に対する一般通念からすれば、本書の表題は極めて奇異なものとして映るかもしれない。しかし著者は、独自の観点から風邪は治すべきものではない、経過すべきものであると主張する。人間は心身の偏り疲労が限界に達したとき、それを調整すべく、自律作用として風邪を引くと言うのである。
著者は、風邪を病理的に捉えるのではなく、謂わば健康の自然法として捉えている。自然な経過を乱しさえしなければ、風邪を引いたあとは、あたかも蛇が脱皮するように、新鮮な体になるとする主張は、極めて説得力に富んでいる。 著者独特の自然観から編み出された「経過する」というユニークな概念は、「闘病」という言葉に象徴される現代の病気に対する考え方を一変させる可能性を持っている。 |
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愉気法 一・二 |
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「心を一カ処にずっと集注して、その密度が亢まると、気の感応が行なわれます。手を当て、気を集注すると、それに応じて相手の裡の力が発揚されることを感応と言います。積極的に下腹に息を吸い込んで、手から吐くような気持で相手の中に気を送るのを愉気と申しております」(本書「愉気について」より)
著者が、長年の間、整体協会の会員を対象に行なっていた愉気法講座のうちから、昭和四十五年五月の講義を収録したものである。
本書は、愉気についての講義に加え、愉気法講座で行なわれた受講会員との質疑応答が多数収められており、愉気と、その活用法、さらに健康生活の原点が、身近な事例を引用しながら、判りやすく、極めて具体的に教示されている。 |
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整体法の基礎 |
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人間は誰もが元気に生きる力を裡に持っていることを自覚させ、自分の体の構造に従ってその力を発揮するよう導くことが整体指導の目的である。この書は、整体指導者を志す人を対象にした初等講座をまとめたものであるが、指導者のみならず整体法を修得し、実践する上での基本的な理念を説いた入門の書でもある。
本書は活元運動、愉気法を具体的に説くとともに、体癖に由来する偏り疲労調整としての整体体操をも併せて紹介している。 |
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体運動の構造 一・二巻 |
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人間の体は絶えず変化しているが、その変化の背後に、いつでも調和を目指す動きがある。この調和を目指す自然な動きに即して生活することこそ、溌溂とした健康生活を営む第一の条件であると著者は主張している。この主張は、著者の五十年にわたる整体指導活動で、一貫して変わることのなかったものである。
本書は「汗をかく、眠る、食べる」といった極く自然に行なわれている人間の生理活動を通じて、調和への動き、整体への動きを具体的に解明するとともに、その動きを妨げない智恵と積極的な活用法を説いている。その観察は精緻を極めており、「自分の眼で見、自分の手で触れたものだけを信ずる」という著者の確固とした態度が一貫して息づいている。
本書の底流にある著者の生命に対する信頼感は、不思議な威力を持って、現代の多くの病める通念を救済するであろう。 |
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人間の探求 |
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この書は、整体指導者を志す人のために、以前、「人間の探求」「卒啄(そったく)の技術」「出産前後」と題して各々刊行されていたものを一冊にまとめたものである。整体指導に当って、常に人間の潜在意識を見つめてきた著者の立処が理解できる。
「人間の探求」では、無意の願望によって方向づけられている人間の心を感ずること、表現された言動に惑わされないことが人間探求の第一歩であると説いている。「卒啄(そったく)の技術」では、ひなが卵からかえる時、ひな鳥の動きに呼応して、親鳥が卵の殻を破るように、その一瞬の機をつかんで指導することが最も大切であると述べている。「出産前後」は、妊娠、分娩という変化を整体の好機として活用するための心理指導の方法を中心としている。 |
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女である時期 |
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「女と男は、どちらも同じ人間だと考えられているが、整体指導を行なう立場から言えば、それとは違った見方が必要になる」と説く著者が、特に「妊娠分娩のできる時期」と女を限るのは、この時期には男とは全く違う動きをするからである。
本書では女であることはどういうことなのか、女として溌溂と生きるにはどうあるべきかが、整体指導の実際に即して説かれている。 |
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体癖 一・二巻 |
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学問が捉える人間は、普遍的、一般的人間でしかない。だが現実の人間は一人一人皆異なり、誰一人同じ人間はいない。まさに「万人は皆個人」である。長年の整体指導を通じて、一人一人の人間に接してきた著者はこのことを痛切に感じてきた。人間は「同一の刺戟に対して同一の反応をするとは限らない」として、刺激−反応の間に介在する感受性の問題に注目した。同じ言葉が或る人を怒らせ、或る人を笑わせるといったように、感受性の状況が反応を左右する。
更に著者は、個人の感受性に固有の「クセ」があると指摘し、個人に繰り返されやすい生理的、心理的傾向、即ち体質や性格も、感受性の「クセ」が齎らす現象として捉える。そしてこれらの現象を仔細に検討し、十二種五類の体癖分類を体系化した。本書によって、読者は自分とその隣人が、かくも異なった世界に住んでいるということに気づくであろう。 |
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叱言以前 |
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「子供が子供なのは天心の故だ。之を歪めまい。傷つけまい。大人のはからいは、ともすれば天心を曇らせる。
いつ迄も天心を保ち、天心に生くるよう導きたい。どんな教育のテクニックも、もし天心を歪めるようなら、それは本当ではない。天心にすくすく生きられるよう育てねばならぬ」(本書「子供の世界」より)
著者が戦時中、疎開先で、次代を拓く子供をどのように育てるかを考え、そのために、まず親を教育することの必要性を痛感して開いた座談会の内容を中心にしてまとめたものである。
具体例を示しながら、大人の便宜や感情の鬱散のためでなく、まず子供の生理、心理を見究めて、子供を育てなければならないと説く。 |
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躾の時期 |
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生後十三カ月の依存の時期を経過すると、やがて幼児たちは何でも自分でやろうと行動するようになり、親の言葉に対しても、小さな反抗を繰り返すことがある。
この時期(三歳〜五歳)を著者は「独立の時期」と捉えて、何ものにも依りかからないで生きてゆける自由な人間を育てる急処だと考えている。同時にそれは躾の時期でもある。
著者のいう躾とは、人間の心の自律性を活かすものであり、自分の要求を積極的に発揮する手段であって、その人を美しくする身だしなみでもある。その躾をさまざまな角度から究明した本書は、親に対する躾の書でもある。 |
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叱り方褒め方 |
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「叱ることを時々、怒ることと子供たちに取り違えられることがある。それほど大人の叱り方は下手なのである。
褒めることは的にピッタリ当らねば甘く見られる。叱ることは三分的を外さねば逆らう。傷口に直接触れられるのは痛いものである。その痛さから新しい気力が起こるのであるから、傷口の深さ迄見究めねばならないが、的中必ずしも心を拓かない。褒め、叱るにはたしなみが要る」(本書「序文」より)
本書は、子供の心理、生理の構造をわかりやすく説くとともに、子供を育てる上で親が身につけるべきたしなみを説いている。 |
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病人と看病人 |
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人間は一人のときの心の動きと、二人以上の関係が生じたときの心の動きは微妙に異なるものである。兄弟のいない一人っ子、二人兄弟、三人兄弟の各々の心理を思い浮べれば、このことは容易に理解されよう。
長年整体指導に携ってきた著者は、早くから病人の特殊心理として、未練症状や被害者意識を指摘してきたが、この特殊心理も、実は、看病人や医者といった第三者との関わり合いの中で初めて生じてくるものであると著者は言う。
著者は病人と看病人を対置させ、各々の潜在意識内の葛藤などを鮮かに描出するとともに、こうした状況に陥った際の具体的な解決への指針を与えている。
本書は、「背く子 背かれる親」「嫁と姑」と並んで、人間関係に於ける心理を追究した三部作の一つである。 |
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背く子背かれる親 |
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「喧嘩をして……相手が強すぎたら……『負けたよ』と……あっさり言えるように教えておけばそれでいい。争うなとか、仲良くとかいう余分なことを子供達に教えなければ子供達はもっと自然に素直に育っていく。強ければ庇うことを……弱ければ従うことを覚える」。
野口晴哉の……「背く子、背かれる親」の一節である。著者は独特の体癖論をもとに、潜在意識教育法、整体操法、活元運動などを提唱し、実行している。それらは肉体の鍛練法でもあり、精神の健康法でもあるようだ。「人間の心と体は一つ」とする著者の文章に、私は不思議に明るく無垢な目を感じる。(朝日新聞 昭和四十七年三月七日付夕刊「標的」欄) |
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嫁と姑 上・下巻 |
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「誰でも初めから悪いお嫁さんになろうと思って嫁に行く人もいないし、悪い姑になろうと心がけている人もいない。それなのに、いつの間にか、良い嫁、良い姑でなくなってゆく。意識的に良い嫁、良い姑であろうと努めるほど、違った方向に行くのは何故だろうか。これは、いわゆる意識的コミュニケーションの問題ではなく、潜在意識的なコミュニケーションに問題があり、更に生理的な体癖とか、その時の体の状態とか、今まで心とは関係がないと思われていたものの働きがあるからです」(本文より)
著者は、こうした立場から人間を見つめれば、お互いの理解の道が自ずと拓かれると説く。本書は、単に嫁と姑の問題のみならず、人間関係の本質を追究するものである。 |
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思春期 |
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「思春期の問題で一番難しいのは、生理的に成長している性を、どのように分散させるか、そしてその分散する行為をどういう方向に向けるかということなのです。その分散の問題については、潜在意識の問題が非常に大事なのです」(本書「序」より)
思春期特有の行動、心理、生理等を説く本書は、体の成長に即して、どういう方向に心の可能性を開拓していくべきかを示唆している。思春期の子供達を持つ親、教師ばかりでなく、心身関係に興味を持つ全ての人々にとって必読の書と言えよう。 |
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潜在意識教育 |
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本書は、社団法人整体協会本部道場で行われておりました、野口晴哉の潜在意識教育法講座を纏めたもので、昭和41年12月に刊行された後、絶版となっておりましたが、野口晴哉生誕百周年を記念して、復刊いたしました。 |
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治療の書 |
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著者は昭和三十年までの三十数年間、治療活動を行なってきたが、本書は、彼の治療家としての到達点を示したものである。「治療といふこと いつも人の体の自然の働きによらざる可からず。護ること庇ふこと出来て、鍛へしむること突き放すこと出来ざるは彼をして独り立たしめざる也。治療のこと 人を強くする為に導く也。時に突き放し、背くこと必要也。…………治療を行ふは自然也。人が人を治すに非ず。人はその在る、あるに在る也。その在る、あるに在らしむこと治療といふ也。わが治療といふこと、斯くの如き也」。
本書を認めて数年ののち、治療を捨て、新境地である整体活動を始めるが、著者の転回期を理解する上で不可欠の書と言える。本書を捨てて省りみないと著者は言うが、本書から、整体指導や教育や医学の真髄を読みとることは容易であろう。生命に触れる者の持つべき「慎しみの哲学」は単に著者個人の信念の書ではない。 |
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碧巌ところどころ |
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「私は今より三十年以前、昭和十七、八年から二十二、三年にかけて、碧巌録を読んだ。バルザック、ジイド、スタンダール、ボードレールから始まって、日本の文学もいろいろと読んだが、自分の心を捉へたのは、碧巌録、臨済録、荘子、白楽天とバルザックだったが、特に一人の人がまとめた二人の対話と、その註釈と批評と、三段階に立体的編集された碧巌録であった。読んでゆくうちに、雪竇と異なった解釈の生ずることもあった……」(本書「序」より)
碧巌録は一則から百則まであるが、本書は書名が示すように、その全則についての評釈を試みたものではない。著者は、その中から自分の共感したものだけを取り上げている。謂わば本書は碧巌録を通じて著者が自らの世界を表現した随筆集といえよう。 |
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偶感集 |
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本書は、昭和六年から最晩年に至るまで、著者が折りにふれて書き留めた語録集である。その一つひとつに、著者の、人を観る眼、体を観る眼、心を観る眼、人生を観る眼、そして自然を観る眼が凝縮されている。しかも、短い言葉の中に、一人ひとりの人間を愛して止まなかった著者の人生観、生命観が読み取れる。「全生」を貫いた整体法の創始者であり、思想家である著者の人間像をより深く理解するうえで見逃すことのできない恰好の書である。 |
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風声明語 1・2 |
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「私はいつも人間の裡の能力を自覚し発揮することを説いている。何のために説くかといえば、ただそうせずにはいられない裡の要求によって、全生の道を説いているのである」という野口晴哉が、折にふれ、思いつくままに書き留めた原稿は、箱根記念館に全て保存されております。
この書は昭和三十七年から五十年にかけて、『月刊全生』の「巻頭言」及び、「語録」として掲載したものを纏めたものです。
本書を読んで共感されたことを生活の中に活かして戴ければ、編者として、これにすぎる喜びはありません。 野口昭子 (本書「序」より) |
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大絃小絃 |
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本書は著者五十年にわたる膨大な草稿の中から、エッセイを中心に編纂されたものである。
「大絃小絃」という表題は、著者が曾つて『全生新聞』に掲載したコラムのタイトルであり、その出典は中国の詩人、白居易の「琵琶行」の一節、「大絃噌々如急雨 小絃切々如私語」から取られたものと思われる。
このエッセイには、急雨の緊張感と、私語の親しい語りかけを通して、人間は如何に生きるべきかを培われた著者生涯の信念をうかがい知ることができるのではなかろうか。 |
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育児の本 |
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溌溂とした子供を育てるためには、まず胎児の時期が大切であると説く著者は、初めに妊娠中の生活を育児の一環として捉え、論じている。
さらに子供が自分の要求を言葉で表現できない生後十三カ月間を意識以前の心の方向づけと栄養管理の上で極めて大切な期間とし、「赤ちゃんの快感」「赤ちゃんの栄養」「母乳の時期」「補食から離乳まで」「赤ちゃんの睡眠」「赤ちゃんの入浴」の各テーマを中心に、母親の心の持ち方を通して「育てる」ことの意味を説いている。と同時に、出産をその直後の体の休め方によって母体が美しく若返り、育児が楽しくなる好機として捉え、出産、育児について、長年にわたる豊かな経験に裏付けられた著者の独自性が示されている。 |
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誕生前後の生活 |
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自然に則した出産は本来快いものである。誰でも体を整えて出産にのぞみさえすれば、その快さを体験できる。さらに出産後の休息期を上手に活用しさえすれば、母体の体質改善や若返りの好機となる。著者は出産もまた健康の自然法として捉えている。
一方、快い妊娠や出産は胎児の潜在意識に良い影響をもたらす。それ故、育児は受胎とともに始まるのである。
こうして、著者は母子一体の整体生活の必要を説く。本書は整体指導者を対象にして誕生前後の諸問題を論じた講義をまとめたものである。 |
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子育ての記 |
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「我が家は私達夫婦の他に、男の子が4人。一昨年結婚した長男……と嫁……の間に亜紗が生まれた。この記事はしかし、妻昭子の文章である。……(本書は)私の孫の育て方ではない。どこのどの子も、斯く育てられるべきだ。その子育ての方向を示すために、この文章を……発表することにしたのである」 野口晴哉(序文より)
この記録は、昭和四十七年から月刊全生に連載され、「子育て」という言葉の流行を生み出した。
近年、整体の観点から子供を育てたいという母親が増えつつあるが、そうした人々にとって本書は恰好のテキストとなろう。生後十三カ月間の子供の成長を刻明に記録すると共に、その間の具体的な対応を示している。子供の成長を見つめる著者の暖かい視線によって、育てるという行為の或いは育つという動きの本質的な何かが描き出されている。 |
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朴歯の下駄 |
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「明治に生まれ、大正・昭和を通して、独往自在、紬の羽織袴に朴歯の下駄をはき、自らの信ずる道を歩きつづけた野口晴哉という人の、その日常生活に於ける言行を私が書きとめておきたいと思ったのは、今の世の中で見失われている人間の最も大切な何かが、そこにあるからであった」(序文より)
本書は、本質的に孤高の人であった野口晴哉の夫人であり、真の理解者でもある著者が、折りにふれて書き記した回想の記である。
著者は、野口晴哉との対話の数々を正確な筆致で綴りながら、幼年期から晩年期に至るまでの、それぞれの時代を悠然と闊歩する野口晴哉像を見事に描出している。
夫人としての哀歓のまなざしと弟子としての厳しい思索が混然融和して、類稀れな情緒を醸し出す本書から、読者は我々の時代が見失っていた大切な何かを見い出すであろう。 |
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時計の歌 |
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折にふれて感じたこと、思い出したことを、先に『朴歯の下駄』として一冊にまとめたが、あれからもう五年、また『月刊全生』に書いたものが可成の量になってしまった。おすすめ下さる方々があって、まとめることにした。
文中、「先生」とあるのは、野口晴哉のことである。ある方が、世間一般の常識では「野口が」とか「主人が」とか書くべきで、先生と言うのは可笑しいといわれたが、もしそう書かなければならないとしたら、私には全く文章が書けなくなってしまう。
おそらく孫悟空が、きん斗雲に乗って空の涯まで行って来たつもりでも、ついにお釈迦さまの掌から出られなかったように、宇宙自然の息に生きることを技術の根底においた先生の整体の思想から一歩も出られないことを、私自身が一番よく知っているからかもしれない。
そんな私の心の記録として読んで戴きたいと思う。(本書「序」より) |
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句集 道の空 |
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俳詩「狩」評 十一年間『月刊全生』に毎月載せた七句より、鷹羽狩行先生に選句いただき句集としたものです。五百句を越える読み応え充分の句集です。感性の円やかさと柔軟さに包まれて、読後感満点といえよう。 (高橋獺祭)
俳詩「鯱」評 いずれの結社にも属しない珍しい俳人の句集で、熟読して感ずることは、二、三の例外を除いて、全作品は、伝統俳句の定型に忠実で、格調の高いものとなっている。 (山上丹五郎)
俳詩「秋」評 「いのるよりすべきなきときの天の川」「哭くといふことうつくしき涅槃絵図」「勇顔や嘘もて通す思ひやり」ここには人生を深く観照して無限の物語性を秘め、俳諧の抒情を柔らかく包み込む滋味の味合いがある。 (平木智恵子)
「毎日新聞」評 早い出発とはいえない著者の、十一年間の著しい進境をうかがわせる第一句集。静かな身辺詠が中心だが、豊かな詩心に支えられ幸福感に満ちた一冊となった。「雪掻きて庭園の景そこなはず」 (Y) |
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見えない糸 |
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野口晴哉の夫人であり、真の理解者でもあった著者が、折にふれて『月刊全生』に書き記した文章をまとめた随想集。
「朴歯の下駄」「時計の歌」に続く3冊目の随想集であり、遺稿集でもある。
日々自ら整体を実践し、体験したことを書き記した本書を読むとき、我々はそのゆるぎない著者の生き方に畏敬の念すら覚える。死の直前まで活き活きと生きた著者のその一生はまさに全生と言えるのではないだろうか。整体生活とは何かを私たちに説き聞かせてくれる本書は、また常に野口晴哉の傍にあってその言動を活き活きとしたタッチで描いている。本書は、野口晴哉を知る上で、また整体の思想を知る上で、まさに「整体入門」として最適の書と言えるであろう。 |
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